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名所・歴史探訪
秋田県・秋田城跡〜日本全国47都道府県・不思議再発見の旅vol.3
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土地の名所・史跡は、様々な歴史を教えてくれます。観光にとどまらず、ライターならではの目線で由緒あるスポットを詳しくご紹介します。
成田 青央
語ろ具ライターによるオリジナル記事です。
秋田県・秋田城跡〜日本全国47都道府県・不思議再発見の旅vol.3
今回の歴史ツアーは、秋田県に到着。古代から独自の歴史を持つ秋田にまつわる歴史ミステリーの旅に出発!
日本全国47都道府県を北から順に巡り、その土地の歴史的な不思議をご紹介していきたいと思います。第3回目は秋田県の秋田城跡に行ってきました。
■秋田城介って誰ですか?
「信長公記」など、織田信長に関連する歴史書や時代小説を読んでいると、天正3年(1575)に、突然、嫡男の信忠が「秋田城介(あきたじょうのすけ)」に任じられたという記述が出てくる。
「三河物語」という、大久保彦左衛門によって書かれた、大久保氏と徳川氏の関係を記した家訓書の中には、「本能寺の変」に際して、信長が異変に気付いて最初に発したセリフは「城介が別心か(謀反か)」という言葉だったと記されている。
つまり、信忠は26歳で、父・信長と運命を共にするその直前まで、「秋田城介」であったわけであるが、では、この名前の意味は何なのだろうか?
古代の律令制において、いわゆる出羽国が建国されたには、8世紀に入ってからだという。太平洋側に比べて、日本海側の畿内政権への服従はかなり遅れた事情があった。
それは、この地が蝦夷の支配地だったことによる。
そもそも、出羽国は和銅元年(708)に越後国の出羽郡として設置された地域に、さらに同5年に陸奥国に所属していた最上川流域の2郡(置賜・最上)が合併され、建国されたものである。今日の町村合併で、新しい市が出現したようなものだ。
出羽国の範囲は、当初は庄内平野あたりまでだったが、次第に北進し、のちには現在の山形県・秋田県あたりにまで拡大した。その拡大プロセスにおいては、当然、蝦夷の平定が行なわれており、その拠点となったのが、「出羽柵」と言われる政庁兼軍事要塞だった。
この「出羽柵」の正確な位置は、実は判明していない。 やがて、天平5年(733)には、この「出羽柵」は秋田村高清水岡へ北進・移設され、天平宝字4年(760)頃には、その地が「秋田城」と呼ばれることになる。
この「秋田城」の国司が、「出羽介」だったために、「秋田城介」と言われるようになり、北方警備の重要性から、国司が「秋田城」に常在し統治に当たることになった。
日本全国47都道府県を北から順に巡り、その土地の歴史的な不思議をご紹介していきたいと思います。第3回目は秋田県の秋田城跡に行ってきました。
〜秋田城東門〜
■秋田城介って誰ですか?
「信長公記」など、織田信長に関連する歴史書や時代小説を読んでいると、天正3年(1575)に、突然、嫡男の信忠が「秋田城介(あきたじょうのすけ)」に任じられたという記述が出てくる。
「三河物語」という、大久保彦左衛門によって書かれた、大久保氏と徳川氏の関係を記した家訓書の中には、「本能寺の変」に際して、信長が異変に気付いて最初に発したセリフは「城介が別心か(謀反か)」という言葉だったと記されている。
つまり、信忠は26歳で、父・信長と運命を共にするその直前まで、「秋田城介」であったわけであるが、では、この名前の意味は何なのだろうか?
古代の律令制において、いわゆる出羽国が建国されたには、8世紀に入ってからだという。太平洋側に比べて、日本海側の畿内政権への服従はかなり遅れた事情があった。
それは、この地が蝦夷の支配地だったことによる。
そもそも、出羽国は和銅元年(708)に越後国の出羽郡として設置された地域に、さらに同5年に陸奥国に所属していた最上川流域の2郡(置賜・最上)が合併され、建国されたものである。今日の町村合併で、新しい市が出現したようなものだ。
出羽国の範囲は、当初は庄内平野あたりまでだったが、次第に北進し、のちには現在の山形県・秋田県あたりにまで拡大した。その拡大プロセスにおいては、当然、蝦夷の平定が行なわれており、その拠点となったのが、「出羽柵」と言われる政庁兼軍事要塞だった。
この「出羽柵」の正確な位置は、実は判明していない。 やがて、天平5年(733)には、この「出羽柵」は秋田村高清水岡へ北進・移設され、天平宝字4年(760)頃には、その地が「秋田城」と呼ばれることになる。
この「秋田城」の国司が、「出羽介」だったために、「秋田城介」と言われるようになり、北方警備の重要性から、国司が「秋田城」に常在し統治に当たることになった。

