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名所・歴史探訪
山形県・米沢と上杉家〜日本全国47都道府県・不思議再発見の旅vol.6
名所・歴史探訪
土地の名所・史跡は、様々な歴史を教えてくれます。観光にとどまらず、ライターならではの目線で由緒あるスポットを詳しくご紹介します。
成田 青央
語ろ具ライターによるオリジナル記事です。
山形県・米沢と上杉家〜日本全国47都道府県・不思議再発見の旅vol.6
今回の不思議発見の旅は山形県。米沢と上杉家の歴史を見ていくと、今の地方行政が抱える問題が見えてくるようです。
日本全国47都道府県を北から順に巡り、その土地の歴史的な不思議をご紹介していきたいと思います。第6回目は山形県の米沢に行ってきました。
■江戸時代の財政再建団体!?
物事というものは、見る角度によって、まったく違って見えるから不思議だ。
例えば、忠臣蔵を見る時、通常、我々は、善玉・赤穂藩、悪玉・吉良家という構図で眺める。
すると、赤穂浪士たちが討ち入ろうとする吉良家の背後には、上野介義央(こうずけのすけよしひさ)の息子・綱憲(つなのり)が養子に入った大藩・米沢藩が控えており、容易には手出し出来ない脅威として映る。
しかし、この綱憲を養子に迎えたことで本当に首が繋がったのは、実は米沢藩の方であった。
たしかに、上杉家といえば謙信(けんしん)以来の戦国きっての精鋭軍団であり、その後継者となった景勝(かげかつ)もお家騒動を退け、豊臣政権下では、五大老の一人に列せられ、堂々の120万石で会津若松に封じられた。
江戸時代の最大の大名が加賀前田家の100万石だったことを考えると、当時の上杉家の勢力は如何ばかりであったのだろうか?
ところが、この大所帯が後々に裏目に出る。不運の始まりは、関が原だった。
そもそも、この関が原の戦い自体、その発端は家康による「上杉征伐」だったわけであるから、まさしく「火中の栗」そのものになったわけだが、果たして、家康が天下を握ると、その報復として、120万石はわずか30万石に減封され、しかも、出羽米沢藩へと押し込められた。
この時、上杉家は、謙信以来の譜代の家臣6000人のうち、ただの一人も首にすることなく米沢に移ったため、極度の困窮に陥った。
6000人の家臣を養うには、通常、60万石の石高が必要とされるところだが、いきなり、120万石から1/4の30万石に国家財政が減額したわけであるから、家臣の俸禄も1/3となった。しかし、家中一同は結束を強め、上杉藩のプライドに賭けて、米沢の城下を整備した。
ところが、ようやく生活も落ち着いた60年後に、再び、不幸が上杉藩を襲った。 三代目の藩主・綱勝(つなかつ)が跡取りを定めないまま、27歳の若さで急死し、藩は幕府の定法に従えば、無継子断絶となる運命にあった。
日本全国47都道府県を北から順に巡り、その土地の歴史的な不思議をご紹介していきたいと思います。第6回目は山形県の米沢に行ってきました。
■江戸時代の財政再建団体!?
物事というものは、見る角度によって、まったく違って見えるから不思議だ。
例えば、忠臣蔵を見る時、通常、我々は、善玉・赤穂藩、悪玉・吉良家という構図で眺める。
すると、赤穂浪士たちが討ち入ろうとする吉良家の背後には、上野介義央(こうずけのすけよしひさ)の息子・綱憲(つなのり)が養子に入った大藩・米沢藩が控えており、容易には手出し出来ない脅威として映る。
しかし、この綱憲を養子に迎えたことで本当に首が繋がったのは、実は米沢藩の方であった。
上杉景勝
江戸時代の最大の大名が加賀前田家の100万石だったことを考えると、当時の上杉家の勢力は如何ばかりであったのだろうか?
ところが、この大所帯が後々に裏目に出る。不運の始まりは、関が原だった。
そもそも、この関が原の戦い自体、その発端は家康による「上杉征伐」だったわけであるから、まさしく「火中の栗」そのものになったわけだが、果たして、家康が天下を握ると、その報復として、120万石はわずか30万石に減封され、しかも、出羽米沢藩へと押し込められた。
この時、上杉家は、謙信以来の譜代の家臣6000人のうち、ただの一人も首にすることなく米沢に移ったため、極度の困窮に陥った。
6000人の家臣を養うには、通常、60万石の石高が必要とされるところだが、いきなり、120万石から1/4の30万石に国家財政が減額したわけであるから、家臣の俸禄も1/3となった。しかし、家中一同は結束を強め、上杉藩のプライドに賭けて、米沢の城下を整備した。
ところが、ようやく生活も落ち着いた60年後に、再び、不幸が上杉藩を襲った。 三代目の藩主・綱勝(つなかつ)が跡取りを定めないまま、27歳の若さで急死し、藩は幕府の定法に従えば、無継子断絶となる運命にあった。

