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大阪で花見と言えば?花見のメッカ!大阪城公園
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土地の名所・史跡は、様々な歴史を教えてくれます。観光にとどまらず、ライターならではの目線で由緒あるスポットを詳しくご紹介します。
醸 のり子
語ろ具ライターによるオリジナル記事です。
大阪で花見と言えば?花見のメッカ!大阪城公園
大阪といったら外せないスポットは「大阪城」。桜に囲まれる春の大阪城と大阪城公園は、地元の方々にとってはまさに「ザ・大阪」なのかもしれません。さぁ、春爛漫の大阪城をご覧あれ。
(編)
大阪で花見と言えば、なんと言っても大阪城公園でしょう。1997(平成9)年に大改修されてさらに金ピカになった天守も、ど派手でゴージャス!まさに大阪らしい桜の名所を紹介しましょう。
■大阪随一の花見所
大阪城公園のある京橋ビジネスパーク界隈は、大阪でも1・2を誇るビジネス街です。そのためか、
「よっしゃ会社帰りに花見でもするか!」
となると、この公園がその舞台に選ばれるのは自然のこと……。かくして桜のシーズンともなれば、酔客でごった返すのであります。
昼間でもたくさんの人が酒盛りをしていますが、それよりも目立つのが青いビニールシート。夜ともなればあちらこちらで大騒ぎが繰り広げられるのでしょう。
■濠に囲まれた難攻の城・大阪城
大阪城といえば、「豊臣秀吉のお城」というイメージが強いでしょう。しかし現在の大阪城は豊臣秀吉のものであって、そうでないのです。
大阪城のあった場所には、当初、浄土真宗の大本山とも言える石山本願寺が建っていました。しかし、織田信長に攻められて炎上。その後に秀吉が建立した大阪城は、黒壁で金の飾りがついた華やかなものだったようです。
しかしこれで終わりではありません。秀吉の亡くなった後、豊臣と徳川の関係は悪化します。そしてとうとう戦が勃発。これが大阪冬の陣です。しかし大阪城は、豊臣秀吉が威信をかけて建築した城だけあって難攻不落でした。そこで講和が成立。このときの条件に、「大阪城の外濠を埋める」というものがありました。常識的に考えれば、濠を埋めるというのは、城を裸にするのと同じこと。こんな条件を呑んだ当時の豊臣重鎮は、戦のイロハをよくわかっていなかったのだと言われています。
結局、講和の約束は破られ、大阪夏の陣が勃発したとき、大阪方は抵抗する術をもちませんでした。豊臣の大阪城が焼失したのは1615年のことです。
そしてその5年後、徳川秀忠によって再建された大阪城は、白壁の上品なものでした。
ここで、現在の大阪城の写真を見てください。下部は白壁で、最上部が黒壁に金の飾りとなっていることがわかるでしょうか。これが、「現在の大阪城は豊臣のものであってそうでない」という所以なのです。
実は、現在の復興天守が建築されたのは、1928(昭和3)年のこと。その資金の多くは大阪市民からの募金だったそうです。当時はまだ徳川大阪城と同じまったくの白壁でした。
しかし、1995(平成7)年から1997(平成9)年に行われた平成の大改修で、5階部分だけ、豊臣時代のデザインに変更され、現在の姿になったのです。
大阪で花見と言えば、なんと言っても大阪城公園でしょう。1997(平成9)年に大改修されてさらに金ピカになった天守も、ど派手でゴージャス!まさに大阪らしい桜の名所を紹介しましょう。

桜の美しい大阪城
■大阪随一の花見所
大阪城公園のある京橋ビジネスパーク界隈は、大阪でも1・2を誇るビジネス街です。そのためか、
「よっしゃ会社帰りに花見でもするか!」
となると、この公園がその舞台に選ばれるのは自然のこと……。かくして桜のシーズンともなれば、酔客でごった返すのであります。

美しい桜の樹の下にはもれなく青いシートが
昼間でもたくさんの人が酒盛りをしていますが、それよりも目立つのが青いビニールシート。夜ともなればあちらこちらで大騒ぎが繰り広げられるのでしょう。
■濠に囲まれた難攻の城・大阪城
大阪城といえば、「豊臣秀吉のお城」というイメージが強いでしょう。しかし現在の大阪城は豊臣秀吉のものであって、そうでないのです。
大阪城のあった場所には、当初、浄土真宗の大本山とも言える石山本願寺が建っていました。しかし、織田信長に攻められて炎上。その後に秀吉が建立した大阪城は、黒壁で金の飾りがついた華やかなものだったようです。
しかしこれで終わりではありません。秀吉の亡くなった後、豊臣と徳川の関係は悪化します。そしてとうとう戦が勃発。これが大阪冬の陣です。しかし大阪城は、豊臣秀吉が威信をかけて建築した城だけあって難攻不落でした。そこで講和が成立。このときの条件に、「大阪城の外濠を埋める」というものがありました。常識的に考えれば、濠を埋めるというのは、城を裸にするのと同じこと。こんな条件を呑んだ当時の豊臣重鎮は、戦のイロハをよくわかっていなかったのだと言われています。
結局、講和の約束は破られ、大阪夏の陣が勃発したとき、大阪方は抵抗する術をもちませんでした。豊臣の大阪城が焼失したのは1615年のことです。
そしてその5年後、徳川秀忠によって再建された大阪城は、白壁の上品なものでした。
ここで、現在の大阪城の写真を見てください。下部は白壁で、最上部が黒壁に金の飾りとなっていることがわかるでしょうか。これが、「現在の大阪城は豊臣のものであってそうでない」という所以なのです。

現在の大阪城
実は、現在の復興天守が建築されたのは、1928(昭和3)年のこと。その資金の多くは大阪市民からの募金だったそうです。当時はまだ徳川大阪城と同じまったくの白壁でした。
しかし、1995(平成7)年から1997(平成9)年に行われた平成の大改修で、5階部分だけ、豊臣時代のデザインに変更され、現在の姿になったのです。

